旅人の旅日記

バイク・青春18きっぷの旅諸々の旅の記録

市振の関・津幡 倶利伽羅峠・那谷寺 奥の細道ツーリングパート2

(続き)2023年6月14日親不知観光ホテルを出て目指したのは「市振の関」、芭蕉はここで「1つ家に遊女も寝たり萩と月」という艶っぽい句を詠んでいる。しかし、これもフィクションだ!というのが一般的な説である。この句の中で詠まれている「一つ家」というのが「桔梗屋」という宿で、その宿の跡も見て来た。桔梗屋は大正時代に火事で焼けてしまった。簡単に見つかると思っていた「市振・海道の松」は中々見つからなかった。写真で見た海道の松はもう既に枯れていて、二代目の細い、ひ弱な松が植えられいて、その場所は国道8号線よりも一本海側の道沿いにあった。「一つ家に・・」の句碑のある長円寺は国道8号線沿いにあり、句碑を見て来た。市振を後にして、石川県小松市にある、那谷寺を目指した。那谷寺に行く途中、金沢の手前の津幡で倶利伽羅峠がわかれば倶利伽羅峠に寄る事にした。津幡で倶利伽羅峠の案内板を見つけてそっちに行くけどまた迷ってしまった。とりあえず道を進む、峠の頂上辺りで倶利伽羅県定公園という公園を見つけた、バイクを止めて、辺りを散策した。その公園で、芭蕉塚と「義仲の寝覚めの山か月かなし」の芭蕉の句碑を見つけた。芭蕉奥の細道の旅で倶利伽羅峠を通って俳句も詠んでいるのに、奥の細道にこの句の記載は無い、また大好きな木曽義仲についての記述も無い?不思議。芭蕉は死後墓石を木曽義仲の墓の横にするよう遺言を残している。この頃、雨は上がっていた。この倶利伽羅の地は、源平合戦の地である事を公園内の案内板で知った。木曽義仲はこの地で、「火牛の計」という戦法で平家10万の大軍を破ったとあった。高速道路を使って那谷寺を目指すが、相方が調べた那谷寺近くの高速道路の出口が無い!地図を見てみると確かに、「箱宮IC」の記載がある。調べてみると国道8号線バイパスの出口のようだった、紛らわし事この上ない。おかしいと気付いたのは尼御前サービスエリアだった。仕方ないので加賀ICまで走り8号線を少し戻る事にした。那谷寺は、白山を禅定した泰澄により開創され、開創当時は「岩屋寺」と呼ばれていた。現在の那谷寺と改名したのは花山法皇という事、花山法皇は色々な歴史の場面で出て来る。芭蕉は那谷寺で「石山の石より白し秋の風」という句を詠んでいる。那谷寺では小雨降る中、外国人のファミリーと一緒に寺を見て回る事になった。この外国人ファミリーは上は80歳台、下は乳飲み子の、総勢10人程。一族で外国を観光出来るって事を少し羨ましく思った。那谷寺には「大悲閣」という本殿が有り、そこには「いわや胎内くぐり」というものがあった。暗所・閉所恐怖症の私はかなりびびったが、ぜんぜん大したことなく、胎内くぐりを完遂出来た。少し残念だったのが、十一面千手観音が新しい気がしたので調べてみると平成2年に再建された物だった。創建当時の十一面千手観音を見て見たかった。那谷寺で遅めの昼飯を食べようと思っていたが、店は何処も開いていなかった。昼飯抜きで山中温泉鶴仙渓を目指していたが途中、雨足が強くなったので、奥の細道ツーリングパート2は終了。高速道路に乗って相方とは敦賀で別れた。途中のサービスエリアで晩御飯の「鱒寿司」を買った。「源」の鱒寿司ではなかったけど、晩御飯に美味しく頂いた。義仲寺には行く事が出来なかったのが残念だった、週末相方から義仲寺に行ってしまった、ごめんとのメール。その内に義仲寺には行ってみようと思う。次の旅は梅雨明けに富山で働いている、会社時代の後輩を訪ねて一杯やろうと思っている。